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ヌメ革はどうしてここに来たのか。

皆様今年もよろしくお願い致します。

 

随分遅い挨拶になり申し訳ありません。

今年からまたヌメ革をお使い頂いているお客様、いつもありがとうございます!

 

写真はあるヌメ革を近くから撮影したものですが、

こうしてよく見てみると、革はグレージングがしっかり施してありスベスベしているように見えて、

実は本当に細かい組織の集合体であることが分かります。

 

動物の肌を触ると、

手のセンサーが活発に働いて、まったりと色々イメージしてしまう。

それは革も同じで、肌の組織に細かい不連続性があるからかもしれません。

革を触ると何か頭が動き始めませんか?

 

私は、革が何故ここにあるのかな、と想像してしまいます。

 

革、は動物の皮まで上手く活用していきたい、と人間が考えて、発明したものです。

じゃあ何故発明できたのか?

 

革が生まれた説は色々ありますが、動物の肉を食べて

後に残った皮を植物の上にそのままにしておいたら、

植物のタンニンが皮を自然に鞣して、革が出来ていた。

という説があります。

その革は使ってみると、結構強い。

長く劣化しない。

適度な伸縮性がある。

保温効果がある。

肌触りもいい。

 

そんな感じで、

その革を体にまとったりすると、

暖かかったり体を守ってくれたりすることに使えるのでは?

と人間が考え始めた。

 

ヌメ革を触りながら、時々そんなイメージが頭をよぎります。

 

でも、

ただ単に、便利そうだったからというわけでもないんじゃないかな?と自分は思います。

そんなアイデアに急に行く前に、もっと原始的な身体感覚があったんじゃないか?

 

革を初めて使い始めた人が、何を感じたか。

 

動物を狩るときの、自分の必死さと、生きるための決死の覚悟。

相手の辛そうな叫び。

 

何とも言えない気分。

 

食べてお腹一杯になって、ひとしきり空腹が満たされホッとしてから、ふとさっきのことが頭をよぎる。

お腹一杯なのに、妙にやるせなく欠落感があるような・・・。

なんだ?これは。

 

相手の痛さをイメージできるようになったのは、

手で、肌とキズを、触ることができるようになったからなんじゃないかと、自分は思います。

 

自分の皮が破れたら痛いのは、自分で分かります。

 

でも、相手の皮が破れたら多分相手が痛いのは、相手の肌の触感が自分とよく似ているから。

相手のキズから出てくる血液の温かさが、自分の体温とよく似ているから。

そして、自分が同じ状態で刺されていたら、かなり痛い、大ダメージだ。

痛いと、恐怖と不安で、気分が悪い。

何回も続くと、悲しく、やるせない。

 

触感が温感が痛感が、人間の想像力を作ったんじゃないのかな?

 

革を触ると、個人的にはそんなことを感じます。

 

食べてしまった動物の皮が自然に革に変わっていきそれを目にした時、

闘った後、食べた後の気分がふと頭をよぎる。

 

しかし強い相手だったなあ・・・。

痛かったのかなあ、牛さん。

オレと同じような皮膚だし・・・。

でも、牛さんの皮膚は硬くてしなやかだったなあ・・・。

 

皮が革に変わったのは、すんごく長い時の中でそういう人間のイメージが蓄積して、

行動に変形していった結果なんじゃないかと自分は思っています。

 

食べた後のあの放置物はどうなっているんだろう。

そのままにしたけど・・・。

ちょっと拾ってみたいような、拾わなければならないような・・・。

拾ったら、

意外と自分の為に使えそうだ。

この力は無駄なく使わせて頂きたい。

 

素直に人間がそう感じて、自分がよりよく生きていくための力に変えていった、

その根底には、本能的な人間の皮膚感覚があったから。

 

そして、相手と自分の痛みを、一緒にしてしまうイメージ感覚も同時にできてしまった。

 

すいません。

結論はないのですが、そんな感じで人が革を使うようになったのかなと、時々思うんです。

だから、自分にとって

革はちょっと痛いもの。相手(牛さん)も、自分も。

 

だとしたら、その痛さをより良いものとして使うのは

食べてしまった者の責任です。

無駄にしない。

使い切る。

自然に返す。

 

そういうお仕事の仕方を、

日々やるしかないのです。

まだまだですが。